明智光秀の3女として生まれたガラシャ〜キリスト教に
強い信仰と悲しい最後を描いています。
私達が住んでいた舞鶴城(細川忠興)に嫁いでいます。
〜〜細川ガラシャ〜〜

1563年明智光秀の第三女として生まれます。
名を玉子(のちのガラシャ)となります。
18才の時、織田信長の命により丹後田辺城(現舞鶴市)
の城主であった細川幽斎の嫡子忠興に嫁ぎます。

天正10年6月に本能寺の変が起きます。
父の光秀は夫の忠興を味方に誘うが、忠興はこれを断り
羽柴秀吉軍として出陣し、光秀と山崎で戦いました。
玉子の実家と婚家が敵対関係となり、仲の良い夫婦だっただけに
忠興の悩みは深く、やむなく玉子を弥栄町味土野(当時は三戸野)
に幽閉するよう申しつけました。

中興とガラシャの像
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彼女はこの地で侍女(清原枝賢の娘で、洗礼名マリア)の一人から
キリスト教の話を聞き、信仰に救いを求めて帰依し
味土野で二年間暮らした。
身をかくす 里は吉野の 奥ながら
花なき峰に 嗚子鳥啼く
秀吉にさとされ、忠興は再び妻として玉子を迎えることとなりました。
城に戻った玉は、洗礼を受けてガラシャ(Gracia)という
名前を授かりました。
洗礼名のガラシャとは、ラテン語で「恩寵」の意である。
忠隆、興秋、他三子をもうけます。
1600年7月17日、夫の忠興は、徳川家康に従い上杉征伐に出陣し
ガラシャは大阪邸の留守を守っていたが、石田三成の軍勢に囲まれ
人質として大阪城入城を迫られます。
”しかし”「私が人質として入城すれば夫の足手まといになる」と
人質を拒み、キリスト教が自害を禁じていたことから家臣(小笠原少斎)に
長刀で胸を突かせて刺殺させ、館に火を放ち、落ちる屋敷とともに
悲運の最期を遂げました。
38歳の生涯でした。
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ
(辞世の句)
「彼女の子孫にあたる細川元首相が議員辞職の会見で
この句を引用したそうです」
*玉子がキリスト教の洗礼を受けると
ガラシャは目を見張るほど、謙遜で明朗快活に変った
と言われています。
洗礼を受けたことは、中興には何年も知らせなかったそうです。
”館に火を放ち、落ちる屋敷とともに悲運の最期を遂げたガラシャ”
教会では彼女のための葬儀”ミサ”が行われ〜遺骨は境の
キリスタン墓地に葬られてました。
大阪の五造りにあるカトリック教会には〜ガラシャの像があります。

ガラシャの像
若くして最後をとげたガラシャ、キリスト教の強い信仰
この時代信仰を保つにも大変な状況であった思います。
ガラシャは多分夫に従い侍女にも優しくまた見守られて
いたのかも知れません本当に悲しい最後でした。
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残る2姫は一体どなたやら?・・と早くも胸の高鳴りをおぼえます!
細川ガラシャ夫人・・といえば、当時(昭和50年位?)
「主婦の友」に連載されていたのを懐かしく思い出す私。
のちに単行本として確か出版されましたよね?
みのりさんの端的な説明、すごく分かりやすくて、いいですね〜♪
訪問毎回うれしいメッセージりがとうございます〜とても励みになります。
”細川ガラシャ夫人・「主婦の友」に連載されていた”んですね。
知りませんでした。
ブログも私の趣味のようなもので〜時に興味があればまた後戻りをして見たり〜
と毎回ご意見ありがとうございます。
みのり
訪問書き込みありがとうございます。
細川ガラシャ舞鶴城の 細川中興に嫁いでいたんですよ〜舞鶴城で〜
こんな悲しい出来事がありました。!
この時代に洗礼を受けたクリスチャンでもあります。
歴史を紐解くと悲しい出来事を想像してしまいます。
みのり
訪問書き込みありがとうございます。
”細川ガラシャが細川元首相の先祖”
総理が議員辞職の会見で〜先祖の
ガラシャの句を読まれるなんて〜すごいですね。私も歴史の勉強をしなおしています。
みのり
やはり自然と女性が主人公のものはよく読みます。
細川ガラシャは大好きで何度も読む1冊です♪
この時代の女性は本当に幸せだったのか・・・・いつも疑問に思います。
訪問書き込みありがとうございます。
この時代嫁入りも家と家とのつながり〜
自分の城を守るため婚姻関係を結ぶ
戦国時代〜自分の城を守る〜
心の安らぎなどなかったのかも知れませんね〜
ガラシャは心の安らぎを求めて
クリスチャンとなったのかも知れません。